「最近の年配者は怒りっぽい」「頑固で人の話を聞かない人が増えた」——そう感じたことはないでしょうか。あるいは自分自身が、数年前より些細なことにイライラしやすくなったと気づいたことは。
かつて「歳を重ねるほど人は丸くなる」と言われました。しかし現実には、他者への苛立ちや猜疑心、排他性という負の感情を強めていく人が一定数存在します。これは性格や人間性の劣化なのでしょうか。
私はこれまで構造物の耐震設計とリスク評価(PML:予想最大損失)の仕事をしてきました。この視点で見ると、加齢による不寛容化は「性格の劣化」ではなく「安全率の喪失」という、極めて構造的な現象として説明できます。
ブレーキペダルが摩耗していく
建物の設計には必ず安全率があります。想定される荷重に対して実際の強度に余裕を持たせ、想定外の地震や強風が来ても倒壊しないようにする仕組みです。
脳にも同じ仕組みがあります。それが前頭前野です。
他者への不満や「気に入らない」という感情自体は、脳の奥にある扁桃体が瞬時に生み出します。いわば地震の揺れそのものです。若く健康な脳では、前頭前野がここに強力な制御信号を送り、「怒っても意味がない」「相手にも事情がある」とブレーキをかけます。これが安全率にあたります。
ところが前頭前野は、脳の中で最も遅く成熟し、皮肉なことに加齢によって最も早く縮小し始める部位でもあります。安全率を担う構造材そのものが、経年劣化していくのです。結果として、心に生じた負の衝動は制御されないまま、そのまま言葉や態度として外に出てしまいます。怒りのエンジンが大きくなったのではなく、ブレーキという安全装置が摩耗している、というのが実態に近いのです。
想定外の入力に対する過剰反応
構造設計でもっとも恐れられるのは「想定外の荷重」です。見込んでいなかった力が加わると、余裕のない構造ほど一点に応力を集中させ、そこから破損に至ります。
脳にも似た反応があります。加齢とともに新しい情報を処理する力(流動性知能)が低下すると、理解できない価値観や予測できない他者の行動に直面したとき、脳が処理しきれず過負荷を起こします。すると脳はこれを「自己への脅威」と誤認識し、扁桃体を過剰に活性化させます。自分を守るための防衛反応が、他者への攻撃性や「自分のルールを押しつける」硬直的な態度に転化してしまうのです。
耐力に余裕のない構造物が、想定外の荷重を受けたときに応力を一点に集中させ破断していく現象と、驚くほど似た構図です。
材料そのものの劣化
構造物の強度は、鉄筋やコンクリートといった材料自体の経年劣化にも左右されます。脳内の神経伝達物質も同様です。
感情を安定させるセロトニンは、加齢とともに合成能力や受容体密度が低下し、心の余裕そのものを削り取ります。認知的柔軟性を支えるドパミン作動系が衰えると、過去の成功体験や経験則に固執しやすくなり、異なる意見や新しい方法論を受け入れるコストが跳ね上がります。材料が劣化した構造物が変形能力(靭性)を失って脆く壊れやすくなるように、脳もまた柔軟性を失い、脆く頑なになっていきます。
分かれ道は「冗長性」があるかどうか
すべての人が等しく不寛容になるわけではありません。歳を重ねてなお、穏やかで開かれた人も確かに存在します。
構造設計では、ある部材が壊れても荷重を別の経路に逃がせるよう、複数の経路(冗長性)を確保することで全体の倒壊を防ぎます。単一の柱だけに頼る構造は、そこが壊れた瞬間に建物全体が崩れる「単一障害点」になってしまいます。
脳における冗長性が「認知予備能」です。日常的な知的刺激、運動、多様な人間関係、新しい学習を通じて神経ネットワークを複線化している人は、一部の領域が縮小しても別の経路が機能を代替できます。
これはAI時代の適応力の問題でもある
なぜこの話が、AIとともに働く私たちに関係するのでしょうか。
AIは私たちの仕事のやり方や価値基準を、数か月単位で「想定外の荷重」として送り込んできます。新しいツール、新しい役割分担、これまでの経験則が通用しない状況——これらはまさに、脳が過負荷を起こしやすい条件そのものです。
冗長性の乏しい脳、つまり認知予備能の低い状態でこの変化を受け止めると、人は防衛的になり、変化そのものを「悪」と決めつけ、頑なにそれを拒む側に回りやすくなります。これは意志の弱さではなく、構造的に起こりうる反応です。
逆に言えば、日々の学習や多様な情報への接触を通じて、意図的に「冗長な経路」を脳に作っておくことが、この先の変化の時代を生き延びるための、もっとも確実な安全設計だといえるでしょう。
負の感情の増幅は、脳の自然な老化現象の一側面です。しかし、そのメカニズムを理解し、日常的に脳へ多様な刺激を与え続けることで、ブレーキ力と冗長性を維持し、変化に開かれた姿勢を保つことは十分に可能です。




