AIが生産の大部分を担う社会では、人間は何を根拠に生きるのでしょうか。
私が気になっているのは、仕事がなくなること自体ではありません。仕事が不要になった後も、人間に「仕事の形」だけが残り続けるかもしれない、という点です。
本記事の主張を、先に3つ示します。
問題は「失業」より、「仕事を必要とする社会」が残ることにある
ベーシックインカムは、設計次第で自由にも管理にもなる
本当に怖いのは悪意ではなく、善意の合理的な選択が積み重なって起きる「依存」である
なお、ここには二つの話が出てきます。苫米地英人氏が語る比喩と、そこから私が考えた仮説です。混同しないよう、後者には「私の仮説」と明記します。
苫米地氏の「地下室で自転車を漕ぐ」という比喩
苫米地氏は、AIやロボットの高度化によって人間の労働が不要になる未来について、問題提起をしています。その象徴が、人間が地下室で自転車を漕ぐというイメージです(米地英人と「2050年へのカウントダウン」YouTube)。
AIとロボットが生産をほぼ担う。それでも人間には「仕事」が与えられ、対価として所得を受け取る。ただしその仕事は、社会にとって本当に必要なものではありません。
ここで大切なのは、自転車が生む電力の量ではありません。「人間に仕事をさせること自体が目的化する」という逆説です。
ここまでが、私が受け取った問題提起です。以降は、私自身の考えです。
私の仮説:仕事のために人間が存在する逆転
現在の社会は、次の循環で成り立っています。
働く
賃金を得る
生活する
消費する
AIとロボットが生産を担えば、この循環の前提が崩れます。それでも「働くから所得を得る」という仕組みを維持すると、本来は「人間のために仕事がある」はずが、「仕事のために人間がいる」という逆転が起きます。
仕事の中身に意味がなくても、「仕事をしている」という形式には意味があります。社会参加の証明になり、所得を受け取る資格になるからです。地下室の自転車が示すのは、この形式だけが残る世界です。
ベーシックインカムは人間を自由にするのか
AIで労働需要が減れば、ベーシックインカム(BI。国民に一定額を無条件で支給する制度)のような所得保障が議論の中心になるでしょう。ただし、BIがあれば自由になるとは限りません。分かれ目は制度設計です。
設計内容人間への影響無条件型何もしなくても受け取れる時間と選択の自由が広がる活動条件型一定の活動をすると受け取れる形を変えた「労働」が残るデータ連動型行動・健康・社会貢献度の記録で給付が変わる生活全体が評価対象になる
三つ目まで進むと、仕事から解放されたはずの人間が、今度は自分の生活そのものを証明し続けることになります。これが、AI時代特有の新しい管理社会の姿です。これは苫米地氏の比喩そのものではなく、私の仮説です。
その場合、地下室の自転車は発電装置ではなく、人間の行動を可視化する装置になります。データ利用そのものは悪ではありません。健康や安全の向上に役立つ場面もあります。問われるのは次の4点です。
誰がデータを所有するのか
何のために使うのか
本人は拒否できるのか
そのデータが生活条件に結びつくのか
土地の代わりにAI基盤を握る者
中世の封建社会では、土地の所有が権力の源でした。土地を持たない人々は、土地を使うために領主に依存しました。
AI時代には、土地に当たるものが別の形で現れます。
AIモデル
計算資源(データセンターなど)
クラウド
データ
ロボット
デジタル・プラットフォーム
私はこの構造を、サイバー・フューダリズム(デジタル封建制)と呼んで考えています。現代のプラットフォーム経済を、歴史上の封建制と同一視するつもりはありません。注目しているのは、「生産手段へのアクセスを誰が握るのか」という構造です。
AI基盤が少数の企業に集中すれば、その企業は単なるサービス提供者ではなく、社会の生産基盤そのものを握ります。構造設計の言葉で言えば、荷重(社会の仕事量)が一本の柱に集まった状態です。柱が一本なら、その柱の都合が社会全体の都合になります。ただしこれも、私自身の分析です。
悪意がなくても依存は生まれる
ここで、ゲーム理論の視点が役に立ちます。ナッシュ均衡とは、各自が合理的に選んだ結果、誰も一人では選択を変えられなくなった状態のことです。
企業は利益のために、AI基盤を囲い込む
政府は成長と安全保障のために、その基盤に依存する
市民は便利さのために、そのサービスを使う
誰も「人間を支配しよう」とは考えていません。それでも結果として、社会全体が特定の基盤に依存します。悪意のある支配者を探すだけでは、この問題は解けません。個々が合理的に動いた結果として、自由が失われるからです。
個人の自律と、制度の自律は別の問題
苫米地氏は、他者から与えられた価値観に従わず、自分自身のゴールを持つことの重要性を語っています。「Want to」(やらされる「Have to」ではなく、自分が本当にやりたいこと)という考え方です。
私はここに一点、付け加えたいと思います。個人がゴールを持つだけでは足りません。そのゴールを追う時間、所得、情報、技術へのアクセスが必要です。一日中、指定された作業に拘束されるなら、「自分の人生を自分で決めよう」と思っても余裕がありません。
だから、個人の自律性と社会制度の自律性は、別々に考える必要があります。
人間に残る仕事は「目的を決めること」
AIは効率を計算できます。建築なら、構造性能、材料費、施工時間、エネルギー消費を最適化できます。しかし、「何を建てるべきか」「何を残すべきか」「その場所をどんな場所にしたいか」は、効率計算では決まりません。
AIが「手段」を高度化するほど、人間には「目的」を決める役割が集まります。人間が不要になるのではなく、価値の測り方が変わるのです。
今日からできる、依存を分散する3つの準備
制度を変えるのは時間がかかります。一方、個人が今日から取れる備えもあります。
特定のAIサービスだけに業務を寄せず、複数の手段を使える状態にしておく
自分の成果物やデータを、手元に持ち出せる形で保存する
「何のために働くのか」を、AIに聞く前に自分で言葉にしておく
どれも小さな行動ですが、構造設計でいう「冗長性」(一か所が壊れても全体が崩れない余裕)を、自分の仕事に持たせることに当たります。
地下室の扉を開けるもの
AIによって、人間が働かなくても豊かな社会をつくれるようになる。そのとき私たちは、「それでも人間には仕事が必要だ」と考えるのでしょうか。それとも、「仕事をしなくても生きてよい」という社会へ進むのでしょうか。
その先に、もう一つ問いがあります。仕事から解放された人間は、自由になるのでしょうか。それとも、仕事の代わりに別の形で管理されるのでしょうか。
地下室の自転車が象徴しているのは、失われた仕事ではなく、人間が自分の人生の目的を自分で決められなくなることなのかもしれません。
だから、地下室から出るとは、仕事を取り戻すことではありません。自分が何のために生きるのかを、自分自身で決められる社会をつくること。私は、それがAI文明に突きつけられた問いだと考えています。



